昭和44年01月21日 朝の御理解
御理解 第53節
「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」
本当の信者じゃと。ここを一つ目指さねばなりません。繰り返しここのところを、いろいろ頂くんですが、今日は「信心すれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い」。信心すれば目に見えるおかげより目に見えるおかげが多い。と言うところをまぁ焦点にして、聞いてもらいたいと思います。段々と信心をさせて頂いて、神愛を感じ神様の心を分からせて頂くようになると、確かにねあれもおかげこれもおかげと、あれとあれと言うことはまぁいうならば過去の事。
全ての事が困った事とか難儀な事と言うことはない。全てがおかげだと。これと言うのは現実取り組んで居るところの問題、それを困った事と難儀な事と思っているけれども、決してそうではなくて、それも神様のいわば思いの現われであると、言う風に分る時にです。それもおかげこれもおかげと言う事になる。ここんところが中々まぁいうならば、本当に徳を受けなければ分からないと言う感じですね。いわゆる肉眼をおいて心眼を開かないとそこが分からない。
おかげだ困った、いやおかげぞと、本当にに言えれる、成程形の上においてはては、病気であり困った事であるとするならば、やっぱり困った事なんだけれども。それを肉眼をおいて心眼心の目をもってすると、それは神様のおかげだと。ですから本当にお徳を受けてここに全ての事に、おかげおかげとね言う事が言えれるようになると、そのう本当の信者と言う風にこの御理解。この辺のところにいつも焦点をおいて頂きますけれども、中々難しいんですよねこの辺のところを。
おかげ頂きゃと思うバッテンがやっぱ苦しい。お話し頂きゃやっぱおかげじゃろうがバッテンが苦しか。すっきりしない。それをおかげとすっきりするところまで行く為にゃ、やはり徳を受けなきゃ出来るこっちゃなか。いわゆる本当の事が見えるようにならなければ、本当の事が聞こえるようにならなければ、おかげとは思われないね。もちろんここんところを目指さなければならんけれども、今日は信心すれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多いと、目に見えぬおかげとはどういうことだろうか。
ここんところが分ると、この御理解が本当に有り難い御理解になって来るですよね。信心すれば目に見えぬおかげと言うのは、例えばお取り次ぎを願ってね、いわばそこに霊験を感じる。はぁ神様の働きじゃな、神様のおかげじゃなと、お取り次ぎを頂いておかげを受けると言うことはね、こりゃ目に見えるおかげなんです。これは誰だって感じますよね。お願いに来ておいてそれが願い通りになる。金光様ちゃ有り難いなぁかただなぁとこう思うです。これが目に見えるおかげなんです。
目に見えるおかげ、ここはまぁいわば目に見えるおかげだからわかる。ところが目に見えぬおかげが多いと仰るのは、多い方のおかげよね、分からなければならんとこは、その多い方のおかげを、私共が不平の元にしたり不足の元にしたり、どうした事じゃろうかねと言う様な事になる。いうなればお取り次ぎを頂いてお願いをして居るのに、どうしてこの様な事になるだろうかと、その辺の所が実は目に見えぬおかげなんだけれども、目に見えぬそう言う所をおかげとして頂ききらんからおかげにならんのである。
だからそこんところがおかげと分る様になると、いわば本当の信者と言うことが言える。先日から御造園に先駆けて、あの自転車のいわゆるところがございますね。その隅に。それをそのう便所をこちらの方へ移転しました。そしてあそこをこんもりと庭造りをすると言うのであちらからこちらへ運びました。運んで見たらははぁここにゃ、ここさへに寄る様な西側の方へ、お広前から上から見ても中々格好がいいんです。中々人間の知恵と言うものは、あそこが一番いいところだと思っていた。
だから本当はあそこが良いけれど、こっちへ持って来たら却って邪魔になるじゃろうと思って、こちらに持って来たら却って良い様な感じである。そこであそこへ庭造りをするのにそのうあそこに電柱が立っているから、電柱を取り除かなきゃならない。電話線を取り除けなければならない。そうすると下のこう道の所に立っておる、そのまぁ電話の電柱ですか、それを移動しなければならない。神様にお伺いを係の方がしましたら、移動したらよかろうと言うことであった。
それを取り除いたらよかろうと、成る程昨日この造園、今度の庭がここの庭はね、回遊式庭園と言うのだそうです。回遊式庭園、これをと言う様な庭のぐるりを回って家、周囲が全部が庭になって居ると言う庭なんです。そのもうあらゆる角度から写真を取って見えられる。係の方が撮って見えられた、夕うべ見せてもらいましたが、もう写真で見るとまた一段とその素晴らしい事に驚く程、立派な写真が出来ています。その中に今のあのここの隅の方の、今あの大きな木が五、六本植えてある。
今まで自転車小屋があった所に植わって居るところが、その肉眼でみる肉眼でと言うか普通で見るとね、そう気が付かなんのだけど写真で見ると、はっきり電柱が出て居るからやっぱおかしい。そこでまぁおかしいことは勿論分かっているから、それを移動しなきゃあならんので、その為にはそこの地主の方にお願いして、そこをちょっと畦道にしとるところの横道に、移動せんならんからそこの地所である所に、電柱を立て直さねばならない。久富先生がお願いに行かれたけれどもどうも返事が重い。
高橋さんが又まいりましたけれどもどうもいけない。その時私は思うたんです。何でも頼むからにはやっぱり、こっちが礼を尽くして行かなきゃいけん。いけんとはいわれんけどもどうも困る困ると言う風に言われる。けれどもやはりこちらが礼を尽くしていかなければいけんから、私は神様にお神酒の一本も持って行ってもらおうと思うてお願いした。そしたら神様から『絶対いかん。』と言う風に頂いたんです。持って行っちゃいかんと、だからここまで出るところを私は実は押さえて。
なら行って来て下さいと行って来て貰ったけれども、いけんからそんなら又日を改めて総代達が顔を揃えてお願いに行こうと言う事になった。そうしておるうちにまぁ私は思うのです。本当に向こうが考えてみると本当に向こうも迷惑なもんだろうと。電柱が自分の地所の方へ一本立つと言う事は御迷惑に違いないんだと、だから何んかそこんにき御迷惑を掛けんで済む行き方はなかかと私が、いや移動するならば絶対そうしなければ出来ないとこう言う。まぁいろいろな話の出て居るうちに。
あそこへこちらの入口の所へ蛍光灯のこうなったのが立って居りますね。あれをあそこの裏に立ててあれにこう持って来るようにすると、他所にお願いをしなくても、そこの電柱を立て替えなくてもよいと言うことになった。私は昨日その写真を見ながらね、ははぁただじゃ普通こうやって見たら、はぁ立派な木が植わって良うなったなあ、良うなったなぁと思うて、思うてその電柱があっても一向目障りにならんけれどね、写真で見るともう実に目障りになんです。
ところがそのこちらに立って居るような、丁度まぁ町にあるあのうねあのう公園の公園の片隅のような感じな、あそこにまぁこんもりとこう植え込みがそう言う風にしちゃるですね。そこでその電柱があっちゃいかんけれども、今言うておるこちらに立てて居るようなあぁいう蛍光灯をですね、こう横にこうやって蛍光灯をあそこに立てたら、この庭が非常に引き上げれるだろうと私は思いました。これは高橋さんがその係をして居られます。その事をして居られますから。
「高橋さんこりゃ写真を見りゃ見る程電柱は目障りになるね、けれどもここにね今の蛍光灯が立ったら、この庭が一段といわゆるモダンな感覚というがでしょうがね。」本当にあのういい感じになるだろうと、そりゃそうですこりゃ本当に変えりゃあ、本当にそれを変えりゃ確かにいいでしょうと言う。立てて見らんと分らんけれども、まぁ立つ事になるだろう。おかげでならあちらにもこちらにも迷惑掛けんでも済むんですけれども、さぁその間の事なんです。
どうして神様がね移動せろと言われたのに、移動する事の為に色々てかずを取るけれどもです。てかずを取るけれども、向こうが中々うんと色よい返事をされない。そこで色々工夫した結果、そう言う来とになったと言う事になるとですね。これがどうだろうなぁ、例えばほんなら例えばですよ。お神酒の一本も持って行って礼を尽くしてお願いにいきゃ、もう向かい内の向かい内事だから村内の事だから、そりゃもうしゃなかろうと認めた事になっとったじゃろう。
もう本当に向こうにも御迷惑をかけんならん、こちらにもよりよいと言う事にはならなかったであろうと私は思う。だから私は今日皆さんに分かって頂きたいのはね、お願いをしてどうしてそげな事言うじゃろうかと、たったそんな事ばじゃなくてですね、その間にこちらに分らせられるもの、成る程電柱一本だって先方としては御迷惑であろう、そんならこちらにそれでも移動せなければならんが、移動するには何かそこに方法はないかと、そいじゃあ電柱を高くしてから、ついでこうしょうと言う話も出ていたが。
最終的にはその電柱を立てる事になった。ところがその写真を見せて頂いて、この蛍光灯のこの電柱を立てるなら、この庭がこの電柱が邪魔になるどころじゃなくて、いよいよそこにまぁモダンな感じのすっきりとした、そこに庭が出来るだろうとまぁこう思われるのです。ですからね、信心をすれば目に見えるおかげと言うものは、私共がお取り次ぎを頂いて思うようになった時のおかげ、これは誰だっておかげと分るから、おかげとしてお礼を申し上げるけれども。
お願いをして自分の思う様にならなかったと言う時に、如何にそこに人間心を使うてですね、例えば人間心までも使うてがたがたしたら、返って御神意におかげを崩す事が分ります。ははぁ物を持って行ったり、いわばお金を包んで行ったり、色々してからお願いはぁどうと聞いてもろうたと、さぁなら聞いてやらっしゃるかも知れんけれども、向こうは迷惑なもの、そしてなら結果においては、こちらでは本当のおかげにならない。それでは。何遍も何遍も行って断られると言う事もやはりおかげである。
まあここでその一つの例ですけれども、お取次ぎを頂いて自分の思うようになったら、おかげの時にはおかげだけれども、思うようにならない時にも、それをおかげと分からせて頂く信心。始の内には私はもう考えもつかない及びもつかないことが、何回かこうやって通うて行きよる内に色々と工夫されて来た。高い電柱を建てるのはどうであろうか、向こうに迷惑を掛けない為にはどうであろうかと、最後的に色々と工夫してならこちら電柱とあの長いあのう木犀がずうっと植わっているところに。
あそこのこっちの端にもあのう電気が付いて、こちらの隅にも又電気が付くと言う事になればね、それはもうあの辺がとても良くなるであろう。私は昨日写真を見てから、ははぁ電柱では目障りになるけれども、普通の今建っている電柱では、けどもこれがあのう蛍光灯に変わったら、この庭は一段と引き上げた庭になるであろうと、私しが思わせて頂いて、ははぁ本当におかげだったんだなぁと、ようやくそこに始めておかげだった事が分る。ですからそのおかげが自分の思う様にならんからと言うて。
如何に人間心を使うてガタガタすると言う事やらは、これはおかげを崩してしまう事になります。信心をすれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多いとこう言う、まぁだまだ多い方がどの位あるか分からない。それを私共が一つ分からせて頂く。それをですほんならばいよいよおかげにする為にです。いわゆる高橋博志先生が言うておられる。「お取次ぎを頂いて起きて来た事は悪い事でもよい。」と仰る。ここんところ悪い来との様になって行きよるようだけれども、それは必ずおかげだとこう言われる。
「お取りぎを頂かずして起きた事は良い事でも悪い」と言われております。私共はもうこれだと思いますね。神様にお願いをしてそれが悪い様に見えるけれども、これは必ず結果は良くなると言う事である。お取次ぎを頂いて出来た事なら、悪い事でもみな良いと、お取次ぎを頂かずして出来た事は良い事でもみな悪いと、みな悪いと言う事は、神様の御神意のままにのおかげにはならないと言う意味なんです。そう言う様な事から本当に確信される信じられるおかげを。
例えば今私が庭園のこの電柱の事について申しました様に、その様な例えば事柄の場合、そう言う体験を積み重ねていって、はぁ却って向こうで承諾して貰わなかった事がおかげじゃったなと、分からせて頂きながらです。それを積み重ねて行く所に、成る程お取次ぎを頂いて出来た事が、悪い事でもみなよいと言う、私は結論が出て来る様なおかげが出来てくる。とてもだからそこを稽古を積まなければ出来ない。やはり本当の信者だと仰るのだから、本当の信者になる為にはそこん所を積み重ねて行かなければならない。
そしてそれがです、本当にね自分のものになったらどう言う事になるでしょう。大変な事ですよねぇ。お取次ぎを頂いてお願いをさせて頂いた事が、良い事であっても悪い事であっても、悪い様に見えておっても、それをおかげと信じれれると言う事は、こんなに素晴らしい事ないですね。そこに金光様の信心の冥利がある。そう言う信心を自分が頂いて始めていわゆる頂ける様になって、始めて本当の信者じゃと言う事になる。本当の信者を目指さなければいけません。こう言う例を言うと本当にもう例は沢山あります。
先日昔親戚から家に貰い物をしておった。それがそのもう仕方ぁもないものを持って来て、ほんな事でもう真心も何んも籠もっとらんもん。こげんなもんば持って来てからちゅうごたる頂き方をしとった。それが直してあった。ところがね先日それでなからなければならんことがあった。もう本当に人間とてその間はどげな風にこげな物んどん持って来てからと、ですから向こうにゃねそげんとがもう幾っつでんあるとですよ、そんならそれけんよかつから持って来らんのっち、言うちからこっちは嬉しかった訳ですよ。
真心が籠もってるちゅうかも知れん。それは成る程向こうには他所にやるから、悪かか知れんと持って来たか知れません。けれどもその悪かってなからにゃいけん事が、その後にここで起こっとるんですからね。ですから私共がね、例えそんならそう言う様な場合ですね、おかげとして頂けれる信心だと言う事なんです。これがもう良かちゃったら絶対いけない事じゃったんです。私が向こうが悪かつからこちらが貰うとったから、却ってよかったと言う事なんです。
信心が分らんばっかりに、そんな人はこっちばかり、よそにやる時はもう良かつしかやらんとです、汚かもんじゃけんで、ほんな悪かしかもんばやってからと言うていらんもんの様にしてとった。ところがそのそれがねそれでなからなならん用が次に出来ておると言うこと。私は目に見えぬおかげと言うのはね。お前は馬鹿じゃあるね、ちゃんとなんちゅう後にゃ、こちらからならん事が起こって来るぞと、神様が言うて笑ってござると思う。それこそ神様が集めて下さる様なものに不平不足を言いよる。
そう言う様な事が、いわゆる目に見えないから分らんのです。目に見えるおかげより目に見えぬおかげが、そう言う意味合いにおいて幾らもある。周囲に目に見えるおかげ、いつも頂くあれもおかげこれもおかげと分る様になると言う事はこれは何時も頂きます。こりゃまぁね今、過去ね、現在と過去、過去に起きておった様々な問題、難儀、現在取り組んでおる難儀。それをそれもあれもおかげであったとする時に。
それを過去の一切をおかげにする事の出来る道であり、現在取り組んでおる。これとてもだから実はおかげなんだと分からせて貰う。ここは中々肉眼をおいて心眼を頂かなければ出来ん。そうにないところなのです。今日私が申しますのは、お取次ぎを例えば頂いて思うようになった、そのおかげが目に見えるおかげであり、お取次ぎを頂いて思うようにならなかった事は、おかげではないような思い方は間違い。
それもお取次ぎを頂いて起きた事であるから、これは神様の御神意であるとして頂ける信心、そう言う信心が出来るようになったら、本当の信者だと言う事をここでは教えて居られます。その本当の信者を目指さなければ。その本当の信者に段々なって行くと言う事が、金光様の信心冥利はそこにある。本当に人を不足に言う事も思う事もいらん。あぁどうした事じゃろうと言うて悲観する事もいらない。
おかげおかげこの方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労させぬと仰るのも、やはりそこには本当の信者を目指さなければ、あれもおかげこれもおかげ、皆んなも喜んで受けれると言う事は出来ない事になる。ですから本当にお取次ぎを頂いて、起きて来る事一切がです、目にはいけない事の様に見えても、それをおかげと頂けれる様になる時、私共は本当の信者になったと言えれると思うのです。
どうぞ。